さて二日目です。
写真が多すぎて、午前と午後の部を分けないとアップできないくらい、長くなってしまいました。
なにしろ、飛鳥文化好きなもので…。
愛が暑苦しくてすみません(笑)
二日目はずっとずっと憧れていた、明日香村に行きます。
両親は長距離を歩いたり、自転車で回ることは不可能なので、
レンタカーで移動予定。
事前の調べで、奈良市からは渋滞しやすく、移動に問題があるとの
情報を仕入れていたので、
最善のルートを選択すべく、奈良市と明日香村の観光課に直接電話をすることに。
明日香村の観光課の方に、訪れたい場所を告げ、どういうふうに回ったら
効率的なのか、教えてもらおうとすると
観「う~ん、車は混むし、連休中は駐車場も満車になってしまうかもしれんで」
私「でも両親のこともあるし、車での移動しか無理なんです。」
観「こことこことここは××の駐車場に入れて徒歩やな、そんで○○は△の駐車場に
入れたらいけるかもしれん」
私「そこは一般の人は入れたらいけないんじゃ…」
観「ちっとくらいかまへんがな~~」
額を突き合わせて(電話越しですが)相談すること30分・・・(笑)
ルートが決定しました。
私「お昼ご飯を新ノ口で予約してるんですけど、明日香村からどのくらいかかりますかね?」
観「えっ!一日で回るルートと違うん??」
私「午後は斑鳩に行きたいんですが…」
観「ひぃ~~えぇぇぇ~~~」
…漫才みたいですが、実話でございます…。(笑)
まあ、そんなこんなで、実際に回れるのかどうか
非常に怪しいハードな観光がスタートするわけです。
奈良市から明日香村までのルートも、昨日利用したタクシーの運転手さんに聞いたり、
レンタカーのおじさんにも聞いたり、
とにかく最善と思われるルートを選びつつ運転。
1時間かかるといわれた距離を50分足らずで到着♪

まず訪れたのは「吉備姫王墓」(きびつひめおおきみはか)
といっても、吉備姫に興味があるというわけではなく、
見たかったのは、「猿石」。

もとは欽明天皇陵に置かれていたらしいのですが、
明治初年ごろにこちらへ移されたと考えられています。

吉備姫王は欽明天皇(吉備姫王墓の隣に王墓があります)の孫で、
皇極天皇、孝徳天皇の母、天智・天武天皇の祖母にあたる方です。
こちらが「猿石」

4体のうち3体には背面にも顔があり、
橘寺(後で訪れます)の二面石とも関連があるかもといわれています。
用途はよくわからないのですが、おそらく庭園のデコレーション
ではないかと考えられており、ある並べ方をすることによって、
何らかの意味を持つのかもしれません。
なんにせよ、不思議な石です。

残念ながら、猿石は柵の向こう側に安置してありました。
間近で見られなくて残念。
裏側も見ることはできませんでした。
せっかくの初遺跡なのに、感慨にふける間もなく、体中がかゆくなる・・・。
私の天敵、蚊が山のように…(涙)
あわてて退散します…。
次に向かうは「天武・持統天皇陵」

見晴らしのいい場所にありました。
天武天皇は、天智天皇の弟。
持統天皇は天智天皇の娘で、13歳で天武天皇に嫁いだといわれています。
天智天皇亡き後、天智天皇の息子、高市皇子との王位継承で争いが起き(壬申の乱)
天武天皇が勝利し皇位に就きました。
持統天皇は同母姉で同じく天武天皇に嫁いだ太田皇女亡き後、
皇后となり、実子の草壁皇子を帝位につけるべく、
太田皇女の子、大津皇子を謀反の意ありとして処刑します。
なにがなんでも自分の愛息子を天皇にしたかったのでしょうが、草壁皇子は帝位につく前に夭折。
あきらめない持統天皇は孫の軽皇子を帝位につけるべく、自分が即位します。
その後・・もいろいろなドラマがあるのですが、
長くなるので割愛…(十分長い…)

猛烈母ちゃん(私のイメージ)と一緒に眠っている
天武天皇の心境は如何許りか・・・・。

本当に見晴らしがいいです。
風景は変わってしまってるでしょうが、山の稜線は同じなのでしょうね。
さて、また移動します。
次に訪ねたのは亀石

カメちゃん。
実はなんの目的で作られたかは謎で、
近くにある川原寺の所領の四隅を示す石標とか
猿石を含めた古墳に関連する遺物なのでは、とか
斉明天皇の時代にグリフィン像を造ろうとしたが加工途中で放棄されたものとか
いくつかの説が出されているものの、結論は出ていません。
上下が逆なのでは。。。という説もあるので、
カメであるかどうかすら怪しいです。
でも、なんだか愛嬌のある姿ですよね。

台風の影はどこへやら。。。
暑い。。。暑いです…(涙)

次に向かったのは橘寺。
聖徳太子の産まれた場所、と言われています。

すごくロケーションのいい場所でした。

しかし、中はとっても新しい・・。

橘。

本堂。この時、暑さでばてばてだったので、
中には入っていません。。

聖徳太子が乗っていたという「黒駒」

ここにも不思議な石があります。
「二面石」
人の心のもち方を表したものとされています

左は「左悪面」と呼ばれ寺の外を(削れてて判別できない)
右は「右善面」と呼ばれ太子堂(本堂)の方を向いています
写真は善面。
これも、もともとどこに置かれていたのでしょうねえ。
父が「念力を入れ過ぎた」らしく、ものすごい晴れ。まるで真夏です。
車で移動といっても、すぐに水分補給しないと熱中症になりそうな暑さ。
普段めったに汗をかかない私はすでに汗疹ができてかゆい…(涙)
でもまだまだ突き進みます。
次はこれぞ、私が一度訪れてみたかった場所。
石舞台古墳です。
石舞台古墳は大きな公園になっていて、駐車場も広く、移動にも便利。
駐車して、ゆっくり坂道を上がっていくと・・・・

見えてきたーー!

これですよ。教科書で見た古墳!

むき出しの姿は、やはり異様な感じがします。
石が大きい・・。
どうやって上に乗せたんでしょうねえ。

入口が下に

正面にはお花が供えてありました。
(正直、お花がないと正面がどっちかわからなかった・・・)

さて、入ってみましょう。

入って…あら、人がいっぱい・・

天井。
案外雑な作りですよね…
でもこれまで何度もあったであろう地震にも耐えてきてるのだから、
絶妙なバランスで組んであるんでしょう

歴史ミステリーサークル?のオジサマ方が熱弁をふるう・・。
オジサマ達が全くどいてくれる気配がないので、泣く泣く移動…。
馬子としんみり語り合いたかったのに…。
(石舞台古墳は蘇我馬子の墓と言われていますがこれも、確定ではありません)

石棺のレプリカ。これを地下に運ぶのだって一苦労だろうなあ

大きな公園です。

遊歩道もあって、周りを散策できるようになっています。
もともと、この地には蘇我氏の邸宅があって、
嶋の宮といわれていました。
馬子亡き後、草壁皇子が住んだといわれています。
皇太子が住むくらいだから、きっと豪奢なお屋敷だったのでしょうねえ。
さ、まだまだ行きますよ~~。
車を出して移動。
今度は日本最古の仏像がある、飛鳥寺に行きます。

飛鳥寺(あすかでら)は蘇我氏の氏寺で、
日本最古の本格的寺院でもある法興寺(仏法が興った寺の意)の後身です。
本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子。
ここから仏教が始まったのですねえ。

日本最古の仏像であるにも関わらず、撮影OK・・・。
説明を聞くところによると何度も火災にあい
当時のまま残されているのは頭部の上半分・左耳・指の一部のみなのだそうです。
よく見ると、お顔に修復の後があって、ちょっと痛々しいお姿…。

隣に聖徳太子像もありました。

こちらからのお姿が好きだ~。
飛鳥寺は、全盛期には中心に五重塔と3棟の金堂が建ち、
その周囲をグルリと回廊が取り囲む、とても壮大な大伽藍だったそうです。
今は衰退してこじんまりとしたお寺になってしまいましたが、
蘇我氏が隆盛を誇っていたころは、さぞ立派なお寺だったのでしょうね。

さて、このお寺の裏側にぽつんとあるこれ。
こちらは蘇我入鹿の首塚です。
近くに伝板蓋宮跡(大化の改新の舞台)があるのですが、
首をはねられてふらふらとここまで飛んできたのだとか…。

奥に見えるのが飛鳥寺です。
当時はこの首塚のあたりまでお寺の敷地内だったのでしょうね。
飛鳥寺を出て、ふらふら歩きます。

飛鳥寺から歩いて2分
亀形石造物があります。
頭の部分の穴から水が流れ込み尻尾の穴から流れ出したと見られ、
尻尾に栓をすることで水を溜めることもできるそうです。
斉明天皇の時代に造られその後平安時代まで約250年間使用された形跡があり、
何らかの祭祀が行われたと推定されていますが、これも定かではありません。

さて、かなり汗もかき、全員がぐったりモード。
ちょっと涼しいところに行こう、ということで、
万葉博物館へ。

足早にクーラーのある施設に向かう面々(笑)
中では万葉人の暮らしを人形たちで見せてくれたり、
飛鳥時代のクイズなど、なかなかにおもしろい施設でした。
汗もひいたし、ほっと一息・・・。(笑)
さて、いよいよ時間が押し迫ってきました。
実は、昼食の予約を12時半にしていたのですが、
ちょっと間に合わないということで13時に変更してもらっていた私たち。
これ以上の遅刻は許されないということで、
急いで予約してあったお店に向かいます。
お昼ごはんの場所に無事にたどり着けるのか、
そして予定通り、私たちは斑鳩を訪れることが出来るのかっ!(笑)
続きはまた明日…。

ブロトモさんの
桃とらマンさんが、猫ちゃんを保護されたそうです。
一日も早く、新しい家族が見つかるよう、よかったらご協力ください。
最新コメント